お名前(呉文繍)の読み方

中国語 ウー・ウェンショウ
日本語 ご・ぶんしゅう
英語 サンドラ・ウー

使用言語

台湾語のほか、日本語、英語、マンダリン(北京語)、広東語などを自在に操る

経歴(略歴)・プロフィール

呉文繍氏の経歴(略歴)・プロフィールです。

1963年 台湾・台北生まれ
1986年 国立台湾大を卒業(文学部)
1993年 野村証券香港法人(野村国際香港有限公司)に入社。山下哲生氏の部下になる。
1995年 香港の上場投資会社へ入社
1996年 東アジア投資(香港)設立に参画
1998年 Japan Asia Holdings Limitedを共同創業
1998年 香港で設立された日本アジア証券グループの最高執行責任者(COO)就任。
2001年6月 買収した丸金証券(日本アジア証券)社長
2001年11月 買収した金万証券(日本アジア証券)の社長に就任
2004年6月 日本アジアホールディングズ(日本の持ち株会社)社長
2009年 国際航業ホールディングス社長
2013年5月 国際航業の会長(代表取締役)に就任
2013年
~2015年
国連国際防災戦略事務局(UNISDR)の民間セクターグループの議長を務める。UNISDR ARISE理事に就任。
2018年 国連グローバル・コンパクト・ボードのボードメンバーに就任
2019年4月 内閣官房ナショナル・レジリエンス(防災・減災)懇談会の委員に就任。
2019年11月 東北大学の特任教授に就任(災害科学国際研究所の所属)。

幼少期

呉文繍氏の父は上海出身、母は台湾生まれの台湾育ち。日常の呼び名はサンドラ。父が名づけた英語名だ。

台湾と香港で育つ

子どものころは、ごく普通の女の子だったという。父が香港の会社に勤めていた関係で、2歳からほぼ7年間、台湾と香港の間を行ったり来たりの暮らしだったという。

多言語を習得

このため、台湾語のほか、広東語、マンダリン(北京語)、英語を、それが何語なのかも意識しないで話すようになった。

子役

父親は数々のカンフー映画を生んだ香港の映画制作会社に勤務したことがある。その関係で、映画の子役に起用されたこともあるという。

日本留学

呉文繍氏は大学で中国文学を専攻した。当時、同窓生の8割方は卒業後、アメリカに留学していた。修士号や博士号をとって帰ってくる。中国文学のクラスなのに、3分の1が米国留学をしていたという。米国で経営学を身につけ「漢魂洋才」をめざす同窓生らが多かった。

商社勤務

大学卒業後は台湾で2年間、商社に勤務すた。自分も別の何かを吸収しようと、日本に語学留学をすることにした。日本文化はまだ移入禁止だった。日系3世の友人から聞かされていた未知の国について興味を抱いたという。

バブル時代に日本語を学ぶ

日本がバブルに踊った1980年代後半に来日し、約1年半日本語を学んだ。圧倒されるほどの豊かさ、あふれかえる情報。なのに、女性が存分に働ける場が少ないと感じた。多くの国籍の人たちが入り交じる「大中華圏」で生まれ育った目には不思議に感じられたようだ。

香港の野村証券で山下哲生氏と出会う

帰国後、呉文繍氏はホテルで1年働いたが、物足りなかったという。そんなとき同窓生の一人に誘われるまま香港へ引っ越した。薦められたのが、野村證券の香港支店である「野村香港」。

未知の業界へ

そこで、野村香港の幹部だった山下哲生氏と出会う。面接官として呉文繍氏の採用を決めた人物だ。それまで証券業界とはまるで無縁だった。面接に行くまで、『野村セキュリティーズ』を証券でなく警備会社だと思っていたという。

アジア戦略を担う熱血漢

山下哲生氏は野村証券でアジア戦略の一時代を担った人物だ。熱血漢として知られた。呉文繍氏の直属の上司となった。

インドネシアの投資会社に移籍

呉文繍氏は持ち前の才能と実力によって社内でめきめきと頭角を現した。野村香港の人事を担当するようになった。その後、インドネシアの華僑実業家の投資会社に引き抜かれた。アサヒビールの中国国有ビールメーカー買収にかかわった。政府機関や商社が入り組むプロジェクトをまとめ上げた。

日本アジア証券の社長

1996年、山下氏が野村を脱サラし、香港で日本アジアグループ(Japan Asia Holdings)を起業すると、実質的なナンバー2として迎え入れられた。

買収先の日本企業のトップに

その後、日本アジアグループは香港から日本へと進出。日本の証券会社を次々と買収した。買収した会社を「日本アジア証券」として統合し、その初代社長に、呉文繍氏が起用された。

兜町で異例のアジア女性社長

また、東京・兜町にある創業100年の老舗「金万証券」の社長にも就任した。東京証券取引所の会員になっている証券会社としては、初の女性トップだった。当時まだ30代。しかも、台湾出身という。異色のキャリアに、証券業界のベテランたちは驚いた。

社員との対話

買収先の証券会社の社員の疑心暗鬼は強く、辞表を出す社員が続出したという。しかし、会社の新たな進路を、可能な限り一対一で、社員に直接語りかけた。

中国や東南アジア

買収した証券会社の多くは、バブル崩壊以降、業績が伸び悩んでいた。呉文繍はバブル期に築かれた古い体質の改革に取り組んだ。そのうえで、成長著しい中国や東南アジアに目を向け、新しいタイプの証券会社への転換を図った。

国際航業グループの社長に

2009年、日本アジアグループが買収した航空測量大手、国際航業ホールディングスの社長に就任した。国際航業では、従来の航空測量をベースに、空間情報、コンサルティング、都市計画へと幅を広げた。太陽エネルギー事業も強化した。

また、「データは集めるだけでなく、データを解析し、問題の解決策を導き出す」ことをモットーを掲げた。官公庁の発注待ちだった経営姿勢を改め、自ら提案していく組への転換に尽力した。

東日本大震災

国際航業の社長時代に東日本大震災(2011年3月11日)が起きた。 航空測量会社のトップとして、 震災の被害把握や復興支援に取り組んだ。

航空写真で被害把握

震災の被害把握などにおいて、国際航業の航空写真が威力を発揮した。 国土地理院との緊急時の撮影協定に基づき、東日本大震災の直後から活動を開始。 震災翌日と翌々日に三陸沿岸部でどれだけの津波被害があったかを撮影し、中央官庁や地元自治体、保険会社に迅速に提供することに努めた。

測量データを復興に活用

復興段階では、新たな宅地開発の土地選定に航空測量などの空間情報が活用された。 継続的に土地をモニタリングしていくことでデータを蓄積。 土地の見える化によって街づくりのスピード加速を図った。

海外でも注目

復旧の取り組みは世界でも注目を浴びた。 スリランカやインドネシアなど自然災害の多い国では、上空からのレーザー計測による津波シミュレーションや、ハザードマップ作成などへの関心が高まった。

防災のスペシャリスト

呉文繍氏は、震災後から防災対策のスペシャリストとして、 国連の防災分野の組織に民間人代表として参加するようになった。 日本政府の防災対策の委員会のメンバーにもなった。

日本アジアグループとは→